ただ生きているだけでちやほやされたい

僕は基本的にインターネットの中で生きている。

特別現実が上手くいっていないわけでもないが、すごく上手くいっているわけでもない。

常になんとなく不安を抱えているから、ネットで雑多な情報や感情を集める。

最近は見ることが少なくなったが、一時期「生きているだけで褒めてくれるbot」が流行った。

生活していると、褒めてくれる人などなかなかいない。特に自分に自信のない人は、自己肯定感を高めてくれるコンテンツを求めがちである。

しかし、本当の欲望は実は違うものなのではないだろうか。

生きているだけで有り難がられ、ちょっとの手間でカッコよく活躍して、異性からめちゃめちゃモテて、お金は向こうからどんどんやってきて、みんなからちやほやされたい!これが本音ではないか?

少なくとも僕は常にこう思っている。

金持ちになりたい。社長になりたい。偉くなりたいし成功したい!!!

でも努力はしたくないし基本的にずっと家でゴロゴロしていたい!

この気持ちの狭間でなんとなくふらふらしながら毎日を過ごしているのは僕だけではないはずだ。

今日もなろう系小説でも読みながら、のんびりと日々を過ごしている。

突き抜けるような青空

夏は空がより鮮やかになる季節だ。とくに奥の奥まで突き抜けるような深い青空は、夏にしかないものだろう。

石川啄木の歌で「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」とあるが、これを見た時に想像するのは夏の、特に初夏の青空であるように思う。

少し不安になるようなほどまっすぐな空はまさに心が吸われるという表現がふさわしいし、しっくりとくる。

海は何故か自分を受け止めてくれるような安心感がある。母なる海と形容されるように不思議な母性すら感じる。対して空はそれが美しいほど不安にさせる。自分が持っていかれるようにも思う。同時に自由の象徴でもある。

スピッツ空も飛べるはずを初めて聞いた時、これは辛い現実から逃げたい者の逃避の曲だ!と強く感じた。残念ながら周りに共感してくれる友達などはいなかったが、今でも似たようなことを思う。

空は逃避で、救いで、あるいは変化でもあって、地に足をつけて、時々這いずるように生きている私たちをただただ、見るでもなく見ている。

何者かになりたい

昔から飽き性で、納得いくまで続けたことがない。

最初の楽しいうちだけやって、コンテンツをひたすら消費して貪り、特に何も身に着くことなくそれなりの年になってしまった。

朝井リョウの「何者」を読んだことがあるだろうか?

現代の就活する大学生をエグいほど深掘りして描いた小説なのだが、何者かになりたい!という登場人物達の渇望をこれでもかと突きつけられる話でもある。

生きるからには何かを残したいとは誰もが思うことだろうか?

しかし、それには何も残さずに消えるように亡くなりたいという気持ちも常に共存しているようにも思う。

大抵の好きなことができて、衣食住に困らず、特に文句の付けようがない環境なのに、時折自分の中の何かが叫び、のたうちまわるのだ。

恥をかくのは死ぬほど怖い。何かを追っている人にはケチをつけたくなる。とにかく斜に構えた冷めた目で自分を守ろうとする。でも結局そんな自分が一番恥ずかしい。

それでも、何かを書くことによって、少しでも誰かに何かが伝わればいいと思う。とにかく何かが少しでも伝わればいいと思う。

時代は常に正しい

ある程度以上大人になると、20前半頃までに叩き込まれた「常識」に反するような価値観の変化に全力で抗うようになる。これは多かれ少なかれ誰でもそうなるものだ。

体罰、同性愛、女性の権利、デジタル化など上げればキリはないが、そのものの是非は置いておくとして時代はの変化により正しいとされることが変わりつつあり、都合が悪くなる人々が全力の抵抗を見せている。

社会に出る前は常識がないと生きていけないと色々なその時代の価値観を叩き込まれるのに、それがどんどん変化して時代遅れの老害と言われるのだからそれはたまったものではないだろう。

ただ、だからといってその変化を受け入れられないなら、大多数のひんしゅくを買い、最悪社会的に抹殺される。

これは今時代を変えようと戦っている若者たちやマイノリティたちにとっても例外ではない。男尊女卑は復権するかもしれない。体罰は当たり前に必要なものとして批判すると村八分になる社会になるかもしれない。今の当たり前は10年後の当たり前ではないのだ。

時代は常に正しい。空気は常に正しい。水をさすならば相応の覚悟も、理解も必要だ。戦うべきところとそうでないところを見極め、イデオロギーに振り回されず生きるためには、時代を正確に捉え、学び続けないといけないのだろう。

面倒くさいので私はやらないが。

リア充的なものを嫌う

リア充という言葉を聞いた時、皆さんはどういう印象を持つだろうか?

これは元々大学に友達が一人でもいる人を指す言葉だったそうだが、今使われている意味とはかけ離れているだろう。リアルが充実している、という曖昧な言葉はどうにも定義しづらいが、なんとなく共通のイメージみたいなものはある気がする。

恐らく正しいリア充は、男女混合で海に行き水着で集合写真を撮り、山に行きバーベキューをしてはしゃぎFacebookにアップロードし、Instagramにスタバのフラペチーノやそれに準ずるものを毎日のように上げて、などと人生を楽しく生きている人々のことであろう。

このような行為は実際に楽しんでいるというだけでなく、楽しんでいる姿を見せて承認欲求を満たすという意味合いもある。なんにせよ、いわゆるリア充とはこういうもののことであろう。

私は、このようなリア充的なものを見ると強い嫌悪感を感じて、ものによってはほとんど条件反射で激しく怒りを向け、否定する。前世でリア充に親を殺されたのかもしれない。

正確に言えば、リア充自体は別に嫌いではない。リア充的なものを撒き散らすような行為が嫌いだし、それで少しでも人に迷惑をかけようものなら烈火のごとく怒り狂うだろう。喧嘩はしたくないので一人で。

多分羨ましさもあるし、自分の人生に後ろめたい気持ちがあるからこその感情だと思う。あるいは憧れの裏返しでもあるのかもしれない。

だが、一部のマルチ商法新興宗教はこのリア充的なものに対する渇望を利用してその道に引きずり込もうとするので注意してほしい。結局は足るを知り、それなりに自分なりに楽しく生きていくことが大事だということだ。ということにしておく。

ガチとエンジョイの狭間で

何か競技性のあるものなどではガチ勢、エンジョイ勢に分けてその軋轢を語られることがある。主に、楽しむことに重きを置くエンジョイ勢と勝つことに重きを置くガチ勢の違いとその二つの陣営がいかに価値観が合わず一緒に遊ぶのに支障があるかが主題である。

私は自分では自分のことをエンジョイ勢だと思っていたが、最近同じと思っていたエンジョイ勢と反りが合わず、エンジョイ勢の皮を被ったガチ勢とまで言われるようになり、この二つの分け方だけでは不十分ではないか、と思うようになった。

私は何事も、より強くなる、より良くなるための最短ルートを知りたがるし、模索するよりも先に調べて真似をする傾向がある。それにより強くなる過程に楽しみを覚えるが、突き詰めてトップに立とうなどとは思わず、身内で楽しんでいるくらいがちょうどいいと思っている。

ガチだ、本気だと言えるほどのものはないし、それが楽しいからやっているだけで壁にあたり行き詰まると割とすぐ辞める。そうやって色々なコンテンツを楽しんできた。

最近気づいたのだが、この楽しみ方は純粋にそれを楽しむエンジョイ勢の中にも入れないし、より突き詰めて勝ちを目指すガチ勢の中にも入れない。孤独である。

それでいて私は人と遊ぶのが好きだ。このミスマッチにより非常に辛い思いをすることがある。

恐らく解決策は、ある程度自重しつつそのもの自体を愛することじゃないかと思う。ガムを早く噛んで味が無くなるとすぐ捨てるようなやり方ばかりでなく、ゆっくり味わい長く付き合うような楽しみ方を覚えると、自分の価値観、ひいては人生も広がり、交流も増えるだろう。

なかなか難しいところだが、ひとまずはこのブログをゆっくり長く味わうように続けていきたい。

私はコンテンツでありたい

皆さんはARuFaという男をご存知だろうか。説明に自信がないので色々と割愛するが、化物と称されるほどの有名ライターである。現在はオモコロ副編集長などの仕事で実際にブログなどを書く回数は減ったが、個人的にはインターネットでトップクラスのライターだと思っている。

そのARuFaだが、しばしば私生活の虚無ぶりをイジられる。休日に墓を散歩する、酒を飲みながら日常系アニメを見るなどが代表例だが、それによりおもしろコンテンツの詰まった麻袋と呼ばれる。

おもしろコンテンツの詰まった麻袋、である。

私はおもしろコンテンツの詰まった麻袋と呼ばれることが非常に羨ましい。人間を辞めて、コンテンツになりきれることのストイックさに憧れるし、そもそも人間でありながらコンテンツと呼ばれるほどの存在への畏怖。私も人間を辞めてコンテンツとして消化されたい。

このブログなどを続けて自分自身のコンテンツ力を高め、いずれはコンテンツそのものとして解脱し、消化する側ではなく消費される側としてその生涯を閉じる。これは一人の人間が生きる意味としては上等な部類ではなかろうか。そう信じて、今日も平凡な人生を生きよう。